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広島カープの歴史
2008/03/18
今回は前回のコラムで広島市民球場の少し歴史にふれたので、広島カープの歴史に触れたいと思う。

まず、カープは1950年に設立され、市民からは原爆復興のシンボルとして認知され広島では絶大な人気があった。観客動員数の表を見ても1956年まで着実に数を伸ばし、1957年に市民球場が建設されると一気に70万人代まで観客動員が増えている。これは原爆の被害で人口数も少なく(現在広島市の人口は約115万人)、生活が厳しい中で、広島の人がカープに愛着を持って、見に行っていたのかが分かる。

また、創立当初は資金難から球団存続の危機となるが、市民が「たる募金」という募金活動に積極的に参加し、何とかその危機を乗り切った。この募金が市民球団と呼ばれるようになった要因としては大きい。ゆえに、ここでたる募金など球団創立当初の動きを詳しく触れていきたい。

たる募金が始まるきっかけとなったのは、何といっても球団の財政難からだ。最初のシーズンを最下位で終えた1950年の年末、カープは既に身売りか、解散かの瀬戸際に立たされていた。当てにしていた自治体の出費が予想の半分以下にとどまるなど資金が不足していたからだ。

そこで、その危機を感じた広島市警本部の有志が1951年2月26日の昼過ぎに広島総合球場(現県営球場)にパトカーを横付けし、1万5620円というお金をカープに寄付した。それが引き金となり、続々と支援金を球団に寄せられるように、球場正面入り口に四斗だるが置かれ、その中にお金を寄付する「たる募金」が始まった。そのたる募金は1回3〜6万円、多いときで10万円を越すこともあった。終戦直後で、決して楽ではない生活ではない市民からそれだけのお金が集まることはすごかった。