ノリのスポーツコラム

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広島カープの歴史 その2
2008/03/19
また、資金難のカープにはもう1つ心強いものがあった。それは後援会だ。カープ存続の危機に、1951年7月に発足したのだが、その時点で支部数は163、会員数は1万3141人、集まった会費とカンパは271万5784円だった。
これも苦しい生活の中からであったことが大きい。広島県庁の高卒初任給が当時、3009円だったのに後援会の会費が一口年間200円。その会費は球団が借金をしていたので、出資扱いとなり、後に株券が領収書代わりに発行された。しかも、会員特典は入場料のわずかな割引だけだ。

原爆の被害で人々の生活は楽ではなかったし、地場の企業も協力ができない。自治体の出資と株式募集でしか、資金が調達できなかったカープ。だが、原爆の復興のシンボルとして「カープを無くすな」と生活が苦しくても、市民はカープを愛し、支えていた。これがまさに市民球団と言われていた時代だ。

しかし、1960年代になると、チーム成績不振が続き、一向に強くならないチームに対して、市民は創設当初の熱が冷め、観客動員数が減る。さらに、1967年のオフシーズンになると東洋工業社長の松田恒次氏が球団オーナーに就任した。これは事実上、自治体や市民で支えてきた「市民球団」という形が終わりをつげたことを意味した。その影響なのか、1968年は球団を創立して初めてAクラスに入ったのだが、観客動員数は47万8000人に大きく減少した。

そのような中で、カープを強くするために自主的に行動するファンもおり、1966年には「広島カープを優勝させる会」という文化人や芸能人が所属する団体も結成された。この会のように、ファンが支える球団という形は、成績が悪くても生き残っていた。
1970年代に入ると、ヤンキース戦法など大リーグの戦法を道入やアメリカの教育リーグへの参加などの工夫、法政大学のスラッガー山本浩二獲得などの選手補強が実り、ついに1975年には念願の初優勝し、観客動員数も100万人を突破した。

そこから1986年までで5度もリーグ優勝した。いわゆる赤ヘル黄金時代の始まりだった。その中には、山本、衣笠などのスター選手の力や赤い帽子を全国に浸透させた球団、また高校野球も盛んで、この時代は県立商業や広陵高校が全国大会で活躍をしていた。そのような様々な要因が重なり、広島が「野球王国」として街全体が盛り上がっており、地方でも強くて人気のある球団を作れるということを全国に知らしめた時期だった。観客動員数も最多の1979年の145万人4000人を始め、1978年から97年まで、ほぼ年間で110万人前後の観客を確保していた。