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スクラップ帖103(馬場啓一さんの「男の礼儀作法」から・・・)
| 2006/05/02
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「男の礼儀作法」・・・こういうのを書棚で発見すると、つい買って帰ることになる。 エッセイストの馬場啓一さん(晶文社発行 初版1993.2.25)の本の題名である。――粋な男と呼ばれるための49箇条――とある。そのなかからひとつ・・・
『日本の男は何もしない。じつに何もしないと感じるのは、海外から日本へ帰ってきて、いつも思うことである。
タテのものをヨコにもしないという言い方があるが、日本の成人男子というのは、まさにこれである。こういう国民は他にアジアの一部にあるだけではないか。正しくない状況である。というのが当方の意見だ。日本の男はもっと家の内のことをやるべきである。
過保護、ということなのであろうか。たとえば海外のホテルのフロントで、ホテルマンとちゃんと対等に渡りあえる日本人が、いったいどのくらいいるだろう。これには最小限の語学と、そして物事から逃げないという態度が必要であるが、日本の男たちはこれをしない。いや、出来ない。ツアー・コンダクターとか添乗員というのはけっして日本の専売特許ではないが、どうもこういう職業に日本人は甘えすぎているように思う。
ことは旅行中にかぎらない。
日常のことで、日本の男性は女性、ことに女房族に頼りすぎているのではないか。これは夫婦のことであるから、他人がとやかく言うべきものではないが、日本の男は会社の仕事をカサに着て、それ以外のことをやらなさすぎるように思う。家事は女のものであるとふんぞり返っているのも、これも家風とかのことがあるからあまり立ち入れないのであるが、やはりちょっと手を抜きすぎである。
会社という、ある意味でクラブに似てなくもない組織に日本の男は属することで大いに安心し、事足れりと感じ、これをもってすべての免罪符にしてしまう。子どもの教育も、夫婦のもろもろのことも、すべてこの会社の仕事の前に、黄門さまの印ろうのごとく、ひれふしてしまうのである。それはねじふせられてしまうという感じに近い。これは、「お国のため」とか「欲しがりません勝つまでは」とどこか通じる。どこかキナくさいと当方は思う。
たとえばこのことは少年時代からの甘やかされ方にも問題があるのであろう。
高校受験、大学受験というエポックに、親ことに母親がマネージャーよろしく十代後半の男の子の世話をなにくれとなく焼く。海外では、ハイティーンというのは外に出れば立派な大人で、母親をかいがいしく面倒見るのは彼らの役目である。そして、そうやって一人前扱いされることを、誇りに思っている。この方が、自然だよね。
それが日本では受験の下見に息子と母親が行く場合、コンダクターは母親である。息子は何もしない。母親は汗をかきかきバスの運転手に、どこで降りたらいいかたずね、サイフをジャラジャラさせて二人分のバス代を探し出す。息子は、ただ見ているだけである。こういう国民は、本当に珍しい。乳母とお世継、正しく春日の局のノリである。これはやっぱりおかしくないか。息子がバスの運転手にたずね、母親をリードするのが本当ではないか。
しかし、これは母親も悪い。しっかりと自分の息子をリードし、しかるべき態度を教えこまねばならない。それは結局息子を大きくすることにつながるのである。どうもこういうあたりのことを戦後の教育は教えてくれなかったようなのである。息子は何も疑わずにこれを見ているのだから。正しく、教育恐るべし。どんなに優秀なクルマを作ったって、これでは日本人を尊敬してくれないよ。
男が一人前の男として自立できないまま年を経て、就職、結婚、そして親になってしまう。それでいよいよ海外に出ると、一人前でない男がいかにみじめであるか、初めて気が付くという寸法だ。重ねて言うが、こういう国民は、海外にはまずいない。よく年寄り連中はこれを称して徴兵制度がないからだと短絡し、これは間違っているが、乳離れさせるという意味で、なにかしら線を引く制度があるといいなと思う。
当方は口に出すのも恥ずかしいが、日本が好きであるから、日本人がもっと世界の人々に愛されてほしいと思うのだが、どうもこういう人間としての基礎的な部分での押さえが出来ていないから、今ひとつ世界の舞台で一人前と思われないのであろうと考える。堂々と主張し、ひかえ目にあたりを見廻すというダブル・アクションが出来ないから、身体のサイズだけでなく中身も発展途上と思われてしまうのである。まことに残念なことである。』
U-10の子どもたちにはしっかりと教え込み、高校生になったら、そして大学生になったら、就職したらという子どもの節目の贈り物にこういう本もいいと思うのだが・・・・・・ でもその前に我々が 『粋な「大人」』 になりたいものである。
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