|
|
雑記帖121(広島北ロータリークラブ例会にて・・・A)
| 2007/03/13
|
---|
雑記帖120の後編です・・・
養老孟司さんの「超バカの壁」という著書のなかで、 『・・・最近は、穴を埋めるのではなく、地面の上に余計な山を作ることが仕事だと思っている人が多い。社会が必要としているかどうかという視点がないからです。・・・俺が埋めた分だけは世の中が平らになったと。平らになったということは、要するに歩きやすいということです。山というのは、しばしば邪魔になります。見通しが悪くなる。別の言い方をすれば仕事はおまえのためにあるわけじゃなくて、社会の側にあるんだろうということです。・・・』 と述べられています。まさに子どもたちの側に勝ちの意味はあるのです。余計な「山」を作るという勘違いの努力をしていたと思います。だからそれは努力とはいえないのです。「山」を作るということは「ほかにない、いい指導をしてやるぞ」と意気込んでいる指導者が主役です。指導という名の「山」を作って登らせるよりも、子どもたちは地面を勝手に進んでいきます。なんと無駄な努力をしてきたものです。しかし当然「山あり谷あり」で、平坦ではありません。少しだけその進んでいく道の「穴」をそっと埋めてやれればいい。特にこのわくわくリーグに参加している子どもたちの年代にとってサッカーは遊びです。好きなだけやって好きなときにやめられるのが遊び。わたしたちは、すこし「山」を作りすぎるようです。楽しいことを与えてやりましょう。そして楽しく遊ぶためにどうすればいいかということ、このことはサッカーを通して子どもたちも考える力を持っています。 ところがここでまた勘違いを大人がしてしまいます。つまり「穴という穴を」埋め尽くしてしまうということです。埋めなくてもいい「穴」の見極めといいますか、そこのところがお父さん、お母さん、指導者にとって大切な部分ではないかと思っています。あいさつ、靴の脱ぎ方、掃除などといったことは、やはりこの年代に残しておかなければいけない「穴」、サッカーの現場で指導者が、家庭で親が、学校で先生が、子どもたちと一緒に埋めていけるいろいろな「穴」と考えてもらいたいなあと思っています。 『足もとのゴミ一つ拾えないものに、いったい何ができるというのでしょうか』 これはこのわくわくサッカーリーグの組み合わせ表に毎回載せています。とても含蓄のある言葉だと思います。経験豊富な大人にがっかりすることが日頃いかに多いことでしょうか。 さきほど勝つことは子どもたちの「サッカーが好き」を実現させてやる手助けであり、それを実感・実見する喜びと言いました。わたしの子ども時代は昭和の30年代です。テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫の「3種の神器」が一つずつ我が家へ入ってきました。まさしく目に見えたのです。貧しいけど懸命に親が働いてくれたお陰だった。親も喜んだことでしょう。昔を懐かしんでいるだけだと言う人もいますが、あのときのうれしさをいまだに覚えているような経験はそれ以来無いような気がします。そして埋めなくてもいい「穴」の見極めを周りがちゃんとしてくれていた、子どもたちにとってそれは間違いなくいい時代であったとわたしは思っています。 話が飛びましたが、手助けと子どもの姿を見る喜びのためには、それこそすべてを注ぐ、24時間勤務の日々です。それはまったく苦ではありません。「たいぎ−」と思ったらやめるときと決めていました。そうすると本当の意味で勝つことを目標にして指導、つまりスポーツの本質をきちっと据えながらの指導ができたのです。結果に対して他人が自分を見ているというのではなく、もう一人の自分が今の自分を見ているという、意外と冷静な姿勢が取れてきたと思います。日々のいろいろなことが自分の喜びになっていく。今思えばわたしもすこしずつ、「山」を作るのではなく「穴」を埋めることが大切なのだと思うようになってきたようです。 子どもたちは大人たちのミニチュアではない。Jリーグの試合で要求されることと、子どもたちの試合でのそれとは大きく違うはずです。それぞれ勝つことをめざしながら、子どもたちには「個」の成長を願っています。「個」の成長を持ってJリーグはレベルの高い試合が見られます。そしてワールドカップで日本代表として活躍ができる場が生まれてくるのだと思います。ひとりの人間としての成長を、こちらは子どもたちの「山あり谷あり」の進んでいく道にある「穴」をしっかり見極めて、あるときにはそっと埋めてやればいいのです。 なにか取り留めのないはなしになりましたが、これからもどうぞご支援をいただき、子どもたちのサッカーを通じての成長の場を与えてほしいと願っています。そしてわたしも教えてもらう場として大切にしていきたいと思います。本日はありがとうございました。
|
|