50(フィフティーズ)の落書き帖

雑記帖123(旧道・・バス・・気くばり・・・)
雑記帖122(春ポカポカ、真昼の夢・・・)
雑記帖121(広島北ロータリークラブ例会にて・・・A)
雑記帖120(広島北ロータリークラブ例会にて・・・@)
雑記帖119(サクラ色・・・)
雑記帖118(弾ける・・・)
雑記帖117(子どもたちは・・僕の時代は・・)
スクラップ帖116(中田英寿選手の引退・・・)
スクラップ帖115(ワールドカップドイツ大会日本代表・・・各紙から・・・)
スクラップ帖114(「子供のため」の矛盾ー祖母井 秀隆氏の記事から・・・)
スクラップ帖113(ワールドカップーオーストラリア戦・・・)
スクラップ帖112(雑感・・・サッカー選手である前に・・・)
スクラップ帖111(夢・・・数学者の秋山仁さんー子どもと職業より・・・)
スクラップ帖110(詩人・坂村真民先生の「あとからくる者のために」・・・)
スクラップ帖109(雑感・・・あっちこっち・・・)
スクラップ帖108(寺西レポート・・・平成4年広島県高校総体決勝ー国泰寺対沼田より)
スクラップ帖107(ワールドカップドイツ日本代表メンバー発表・・・)
スクラップ帖106(脳科学者、茂木健一郎氏ーボイス2006.2月号から・・・)
スクラップ帖105(藤原正彦氏ー2003.9.28産経新聞の随筆より・・・)
スクラップ帖104(雑感・・・新聞の社説ー教育基本法ーから)


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スクラップ帖105(藤原正彦氏ー2003.9.28産経新聞の随筆より・・・)
2006/05/08
前回の最後で書いたように、藤原正彦氏―「国家の品格」の著者の、2003.9.28の産経新聞『「個の尊重」は身勝手と同義語か』という随筆を紹介したい。





『個とか個性という言葉を毎日のように聞く。「個に応じた教育」「個性を伸ばす」「個性の輝く大学」「個性豊かな町づくり」と続く。いつから日本人はこんなにこの言葉が好きになったのだろう。

教育基本法の前文に「個人の尊重を重んじ」とあり、また第一条にも「個人の価値をたつとび」とある。戦前の教育勅語では、「此れ我が国体の精華にして教育の淵源また実に此に存す」と国体の尊厳が謳われたり、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」と公が強調されていても、個の字はどこにもない。

日本を「二度と立ち上がってアメリカに歯向かわない」国にすることを念頭に、平和憲法と教育基本法を作ったGHQ(連合国軍総司令部)は、公から個への転換こそ日本を弱体化させる鍵と見たのである。慧眼であったのか狙い通りとなった。

個と公がどちらも重要なことは論を俟(ま)たないが、戦前の教育勅語の中で個が次第に退潮に傾いたように、戦後の教育基本法の中で、公は次第に退潮に向かってきた。親や教師のほとんどが戦後生まれとなったここ十数年は勢いがついている。

「個の尊厳」とか「個の尊重」とかの標語が、美しい響きをもつから、なおさら始末が悪い。国民は他愛なくこれらに酔ってしまう。


その結果、親と子、先生と生徒は対等となったから、公立学校から教壇はほとんどなくなったし、宿題を出さなくとも罰を与えられないし、親や教師に敬語を用いないどころか、暴言を浴びせるような生徒さえ大目に見られている。「個の尊重」があるから、中学生のテレビ視聴が平日は二時間五分、日曜は四時間五分、読書時間のほうはそれぞれ四分と八分、という日本衰亡を予告する統計が出ても、何の強制措置もとられない。

これら標語は、文科省をはじめ教育界を席巻し、いまや子供中心主義や子供へのおもねりの土壌となっている。落ちこぼれや不登校児が増えたのは、教える内容が多過ぎ、レベルが高過ぎたため、ということで「ゆとり教育」が導入された。親と教師、そして社会が、子供を甘やかし、厳しく育てることを怠ってきたことへの反省はどこにもない。

小学校で円周率を3として計算してよいことになったのも、小中学校の国語教科書から漱石や鴎外が消え、文語がほとんどなくなったのも、子供へのおもねりである。成績表をこれまでの相対評価から絶対評価に変える動きも、教師が「教える者でなく生徒の学習を援助する者」となったのも、同様である。学力低下は当然であろう。

「個の尊重」が本当に個性を伸ばしているのなら多少は救われるが、そうでもない。三十年以上も大学生を身近に観察してきて、現在の学生が十年前、二十年前の学生に比べ個性的とは、とても思えない。本を読まないこともあり、考えなどはむしろ幼稚化画一化されている。個性的になったのはファッション感覚くらいではないか。

「個の尊重」は「自由」とないまぜになって広く社会で猛威をふるっている。その結果、これらと紙一重の身勝手、わがまま、したい放題が猖獗(しようけつ)を極めている。紙一重であることは、日本の中世で、「自由」はしばしばわがまま勝手の意でもちいられていたことからもわかる。


「個の尊重」とか「自由」への歯止めとしてなのだろう、「自由と責任」が人口に膾炙(かいしゃ)され、「他人の迷惑にならない限り何をしてもよい」が大手をふってまかり通るようになった。もしその通りなら援助交際も誰の迷惑にもならないからよい、となる。責任をとる必要がなくてもしてはいけないこと、ひとの迷惑にならなくともしてはいけないこと、をわきまえることこそが道徳の中核である。

誠実や慈愛や惻隠の心を持ち、卑怯を憎み名誉を大事にする、などは責任とも迷惑とも無関係の道徳である。我が国では歴史を通して培(つちか)われた情緒、規範がそれを形成していた。「個」や「自由」は結果的にこの美風を破壊している。長い封建制や軍国主義や共産主義の末に人類がかちとったものだから、世界中がそれらを奉る気持もわかるが、明らかに弊害が際立ってきている。多くの先進国で教育や社会がぎくしゃくし、経済では自由競争のもと、残高が一兆円の一万数千倍となったデリバティブなど、資本主義の息の根を止めかねないものが跋扈(ばっこ)している。「個の尊重」や「自由」に、いかに規制を加えるかは、二十一世紀世界の大きな課題と思う。』





前回の最後で書いた、〈「個」となり得ていない「子どもたち」をどれだけ甘やかし機嫌を取ってダメにしてきたのだろう。その子がすでにU-10の親として今の時代を生きている。〉 そしてU-10を教える先生として今を生きている。本当に教育の責任は重い。我々ができることを一度整理しなければならない。
してはいけないことをわきまえる。子どもたちにおもねることなく、ただ毅然と立ち向かう(広島の)大人でありたいと考えている。