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スクラップ帖84(師匠 寺西 忠成のこと・・・C)
| 2006/03/20
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【思いつくまま =十年を顧みて= 】のつづきから・・・
『 第二義的なもの
昭和28年は第二義的なものに表裏とも完全に明文化した年といえます。実業団全国大会に九州代表として出場は出来ても現状の練習状況では到底その上位進出は不可能ですから、幸い主将になった私は練習に出て来ない選手は今後試合に出場させないと断言しました。実際のところ11人の選手さえそろえ切れないことも予測される時代でしたが敢て断を下しました。アルコールが入れば人は意外な発言をするものです。この頃、ある先輩が「おれ達は君みたいにサッカーで入社したのではない、趣味でやっているので何らサッカー部に恩義はないのだ。感謝されてもいい立場なのに君のやり方は僭越である」と言われたこともありました。昭和28年主将石川(明大出)が入社し、昭和29年、渡辺(基町高)皆本(修道高)を補強し今までの九州代表から全国大会で何とかやっていけるチームへと変貌して行く段階に到達してきました。
第三義的なもの
昭和30年佐伯(基町高)の補強なって、待望の全日本選手権への九州代表となり得てから名実とも九州の代表として第三義的なものへ進出しはじめたわけですが、実に入社以来足掛け7年目でした。さて第三義的なものたるために時のマネージャーと相談し、高度な相手チームを物色すると同時に練習も科学的に行うことにしました。中央のサッカー関係の方々と接する機会にめぐまれない八幡チームにとって、兄貴分として陰に陽に助言を受けた東洋工業、全鉄鋼、全関西のチームの方々に負う所は大であったと感謝しております。八幡のサッカーもかかる過程で一応サッカーの形をととのえることが出来たわけです。』
つづく
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